ほかに誰がいる・ありふれた風景画

ほかに誰がいる

ほかに誰がいる

ありふれた風景画

ありふれた風景画

天鵞絨と「わたし」、瑠璃と周子、どちらも女性同士のカップルを描いた小説です。
別に内容から選んだわけでなく、作家名とジャケットで拾ったものなのですが、たまたま内容が似ていたという。
両作ともに、きりきりと、締めつけるような言葉で、でも淡々と、登場人物の心情が綴られています。
「わたし」も瑠璃も、非常に自分の情動に自覚的であり、同時に相手の立場や心情を想うが故に葛藤に苦しんでいたりします。
両作ともに、きりきりと、締めつけるような言葉で、でも淡々と、心情が綴られています。
思うに、世の中には自分の心の中に深く潜り込んで、自分の内の言葉をうまいこと引っ掴んで取り出せる人間と、そうでない人間に分かれています。もちろん、自分の内なる言葉が掴みだせたからとて、それが必ずしも本人に益するものではありません。むしろそのような資質は、生きるのに極めて辛い影響をもたらすのではないでしょうか。
そんなわけで、自分の内なる言葉を掴み取れてしまう「わたし」や瑠璃は、掴み取れてしまうがゆえに、そしてその内なる言葉の残酷さゆえにバランスというものを失っていきます。
そうしてバランスを失ってしまった「わたし」あるいは瑠璃を、相手が支えてくれるのかどうか、が二つの作品の結末の分岐点になっている気がするようなしないような。
天鵞絨が異性と結ばれてしまったせいで、自暴自棄とも取れる状態になった「わたし」は悲劇へと全力で突っ走ってしまいます(ほかに誰がいる)。
一方、周子と瑠璃の二人は、極めて危うげに十代の少女らしく揺れながら、それでもお互いのあり方を認め、おさまっていくわけで(ありふれた風景画)。


それでも、塩味は前者の不思議な読後感の残る結末の方が好きです。
びろうどのようなやわらかにかすれた声が、目を閉じれば聞こえるようで。